トップページ >> 同窓会の紹介 >> 主な行事 >> 2007年 学校祭展示物
主な行事

2007年 学校祭展示物

《入学式&卒業式》

入学式は、D館 → 体育館 → 礼拝堂。卒業式はクラッカーからネクタイ投げに。

1期(女):1期生の入学式は大学のD館だったと思う。卒業式では先生には内緒で式の最後にクラッカーを鳴らした。このクラッカーの儀式はその後数年続いたと聞いているが、いつからネクタイになったのかしら。しかし、普段着てもいない制服のネクタイを投げても意味ないと思うけどなぁ。
2期(女2):入学式も卒業式も体育館だった。卒業式、入場の時には吹奏楽部(?)が威風堂々を演奏してた。

2期(男1):入学式で、新入生代表で挨拶文を読んだのは、1−4の安達かおりだった。

2期(男2):入学式以前の話だが、入試の発表の時、正門の所に合格者が張り出されていたが、2階の窓から1期生がたくさん眺めていて、合格して玄関の方に歩いていく人が出るたびに大声援をおくってくれた。
4期(女): 4期は体育館であったと記憶します。
5期(女): 入学式も卒業式も体育館。卒業式の際、大内校長先生と皆、握手していた。
7期(女): 7期のころも入学式は体育館でした。ロス・オリンピックに穂刈先生が出場なさった時には終業式に壮行会もやったんですが、それも体育館でした。私が初めて経験した終業式(が壮行会を兼ねたものだったはずです)では、校長先生のご挨拶の際に爆竹をならして歓迎する先輩達がいてびっくり。でも、それに笑顔で答えた校長先生にもびっくりした記憶があります。卒業式は大学の礼拝堂でした。私がピアノ伴奏で出た5期生の卒業式は体育館だったと記憶しています。
12期(女):大学の礼拝堂でしたが、全員でネクタイを投げてはいたかどうかは不明です。礼拝堂の表で学年全体の写真は撮りました。

14期(女):14期は、入学式も卒業式も大学のチャペルだった。入学式の時、帰国子女の入学生代表が流暢な英語で話をしている姿を見て、一般生の私はカルチャーショックを受けていた。噂には聞いていたものの。。きっと、それは今も昔も変わらないだろう。

19期(女):19期はネクタイ投げはありませんでした。

22期(女):全員でネクタイを放り上げるのは慣例になっていました。
クラスごとの証書授与では、事前に何をするか相談して、担任の先生に内緒で喜ばせようとたくらみます。

24期(女):入学式、卒業式は大学のチャペルで行いました。始業式、終業式は体育館でした。

 


《制服・上履き・髪型など》

服装は、昔はまあ真面目、その後アレンジ過多(?)のときを経て、現在は指定時以外は制服でも私服でもOK。

1期(女):斬新な金色のネクタイは他校の学生に「沢庵をぶらさげている」と馬鹿にされたりもしたが制服のメーカーは婦人服の「麻里邑」というところのもので、当時はかなりオシャレだったのだ。上履きは自由だったのでウェッジのハイヒール(最近、2周くらいしてまた流行っている)など履いている帰国女子もいた。

2期(女1):創立当初は毎日制服を着用しなければならなかった。スカート丈は昔は膝下だったと言ったら、このあいだ16期卒の人に驚かれた。上履きは1年目はなかったが、校舎内が汚れるため2期生のころから靴を履き替えるようになった。学校指定品はなく自分の好きな靴(確か☆印をつけた気がしたが…)でよかった。髪型に関しては当初はパーマ禁止だったと思ったが、かけてる人は結構いたし、特に問題にもならなかった。

2期(女2):制服に関して、入学当時は「馬里邑ユニフォーム」だったが、ジャケットのボタンがとれやすいので(?)、別のメーカーに変わった。クリーニングが間に合わないなどで制服でないものを着てくる場合には「異装届け」という書類があり、担任の先生に出した。夏休みは登校時にも制服着なくてよかった。

2期(男1):現在は下駄箱の場所に「すのこ」が置かれているようですが、学校指定の靴があるかどうかは不明です。当時上履きに「☆印」をつけましたが、多くの生徒が外履き・通学用靴に☆を書いていた・・・。制服にセーターは無かったので、各自が用意したが絵柄がある物や派手な色使いの物は禁止されていた。ワンポイントならOK!と言う事だったが、そこで発生した問題が「一体どの大きさまでがワンポイントなのか?」。○○UNIVERSITYの大きなマークを胸いっぱいにつけたセーターで「これだってワンポイントだ!」とかなんとか。
4期(女): 4期は制服でした。みんなセーターを着たり、腕まくりをしたり、ネクタイをゆるめたり、それぞれ工夫してました。スカートの丈は膝下でしたが、あの時代、そもそも短いスカートというものは考えとして存在せず、むしろ皆さん長めでした。
5期(女): 私がいたころ、シャツの襟を取り外すことがはやり、女子は襟なしシャツを着ていた。上履きは女子寮と校舎の間に下駄箱があり、そこで履き替えていたが、いわゆる典型的な上履きである必要はなく、私は革靴を上履き専用にしていた記憶がある。
 髪型は、今のように誰もが染めているような時代ではなかった。クラスの友人で、髪の内側(首に近いほう)だけを金髪に染めていて、それがみんなの間で斬新だった。他は誰もが黒髪。

7期(女):7期のころには上履きがあったかどうかは記憶にないのですが、確か靴箱にはよっていたと思うのであったのでしょう。でもいつの間にか下足のまま校内を歩くようになっていました。卒業時にはすっかり上履きなどはかなくなっていたと思います。校則が変わったのではないように思うので、制服同様、勝手に変更していたのでしょう。
 制服も毎日着用の義務のあるものでしたが、スポーツデイのころを境に、クラスで作ったTシャツなどを着てくる生徒が増えて、それがそのまま上着の自由化などにつながったのだと思います。校則では相変わらず制服を上下着用のこと、という建前になっていました。ベストやカーディガンにも規制があったのですが、入学当初の委員会案内でセーター委員会というのがあることを知らされ、これは校則には既定のセーター、ベスト、カーディガン(紺色にするなどの規定が書いてあったはず)を着用のこととあるがナンセンスなので、それを撤回させるべく、毎日率先して自由なセーターを着てくる委員会です、というご紹介だったように思います。一般性で入学した私にとっては、はぁ・・・と驚きの委員会でした。
制服は生徒会が主催だったか、毎年リサイクルの販売があって、友達などは買っていました。結構高い制服なのでリサイクルバザーはいいアイデアだと当時思いました。
私が卒業してすぐに制服は式典の際に着用すればいいものに変わったのだと聞きました。
 髪型には特に規制はなかったように思います。一つ上の学年の男子学生がモヒカン刈りにして登校した時など結構話題になっていました。パーマも確か大丈夫だったはずです。私も1年生の夏にパーマをかけた記憶があるもので。
 制服の自由化といえば、私よりも1回りぐらい下の学年の卒業生に聞いたんですが、一時期女子高生の制服ブームがあった時に、ICUHSの制服ではなく、よその学校の制服を着て登校した学生がいたんだそうです。それを見て3年生の女子がICUHSの制服を上から下までばっちり着込んでそのクラスに乗り込んで、「これがICUHSの制服よ!」とご注意申し上げたとか・・・。結構笑えるエピソードでした。まぁ私たちのころにも金色のネクタイってどうよ??という反応はありましたけど。

9期(女): 上履きはなかったように思います。父(長埜先生:編集者注)は持ってたので、教職員ははきかえてたのかも?制服は着たい人は着てました。私はよく着てたほうですが、それでも勝手に土曜とイベントのある日は私服と決めてました。他のみんなは、スカート・ズボンだけとか自由にやってました。学祭のMR&MSの項目で『制服』というのがあり、よく着てる人や似合ってた人が選ばれてました。

12期(女):靴を部屋履きに履き替えていた覚えはないです。確か教室もローヒールで歩いていた気がします(確かハイヒールは禁止でした)。禁止されていた髪型はなかったです。パーマOK、剃りこみOK、長髪OKでした。(当時は髪の毛を染めている人はいませんでしたが、時代でしょうか。)

14期(女):14期の時には、上履きはなくなっていた。普通に中庭へ出ていたし。校則はお酒とタバコだけが禁止されていたような気がする。でも、校則の条文って見たことないな。。。
19期(女):19期のころは既に土足で校舎を出入りしていました。スパイク、ハイヒールは禁止だったと思いますが、それが守れなくて怒られている人もいたと思います。
22期(女):上履きは無かったです。多目的ホールのみ土足禁止でした。
一時下駄が流行ったのですが、廊下に傷がついたりへこむとのことで禁止ということがありました。制服、髪形については本当に自由でした。
24期(女): 学校内は土足です。髪型も特に規制はなかったと思います。自由でした。

 


《通学》

昔はバスか徒歩、やがて自転車かスケートボード(?)、今はスクールバス。

1期(女):最初の頃は西武線の存在が知られていなかったのかあまり利用している人はいなかったと思う。西野からバスで中央線方面に出るか。当時、西野のバス停前に寿司屋がありバスを待っている間に海苔巻きを買ってかじっている生徒がいた。

2期(女1):2期生のころは、西武多摩川線の新小金井駅か西野バス停から徒歩で通学していた。

2期(女2):武蔵境から、遅刻しそうなときは乗り合いでタクシーに乗った。
2期(男2):新小金井の駅に行く途中の信号のところのお菓子屋でアイスやジュースを買うのが楽しみだった。
4期(女): 4期生は2期生と変わりません。スクールバスは効率的かもしれないが、くさいものにフタというか、甘やかしというか。。。。。。。
5期(女): 西野バス停を利用。今のように歩道などなく、車道ギリギリのところで立って待っていた。私は小田急沿線に暮らしていたので、西野から狛江営業所まで乗り、そこから狛江駅までのバスに乗り換えて小田急線に乗っていた。とにかく長い通学路だった。
7期(女): 7期のころには、武蔵境か東小金井から自転車通学の学生が多かったです。1年生の春学期の間にどんどん自転車通学が増えた感じですね。この自転車のマナーの悪さや交通事故のことなどでスクールバス導入になったと噂で聞いています。
9期(女): 東小金井からチャリンコというのも多かったですよ。私は歩いてたので、よく乗っけてもらいました。
12期(女):当時は最寄り駅から徒歩が基本でしたが、自転車やスケートボードで通学していた人がいたように思います。
19期(女):19期のころは武蔵境、東小金井からの自転車通学が認められていました。たぶん2年生から

22期(女):西野バス停利用者には調布駅利用者もいます。
スクールバス導入は「武蔵境駅まで自転車利用者」の事故が目立ったこと、自転車の二人乗り、並走などのマナーで問題になったこと、バス降車後の道路横断の危険が問題になったからと中山先生からお聞きしました。

24期(女):武蔵境駅から自転車通学が多かったです。

 


《先生の思い出》

昔から個性的な先生が多かった……。

2期(女2):数学の佐藤先生は、黒板の消し方に特徴あり。黒板半分を、まず上辺を右から左へ消し、そのまま縦に消し、次に黒板消し1こ分下を右から左に消し、縦一個分右を消し。。とカギ型に消していき、最後にちいさな■を消す。(わかります?)
 中山先生の化学の授業で、中国語の周期表をもらった。
 竹田先生の国語は漢字テストだけはまじめにやったが、散歩に行ったり、栗拾いしたり、まあいろいろやりました。

2期(男1):生物の斉藤数先生。大掃除のときに新聞紙でガラスを拭くときれいになると教えてくれた。
 日本語の今村成男先生。第1男子寮のアドバイザー。750ccのバイクに乗っていた。(在職中)
 家庭科の荒井先生。優しかった。
 数学の谷口先生。我々が卒業した頃だったか、残念ながら他界。
 英語の細井先生(故人)、青柳先生高田美和子先生(現在はきれいな全白髪頭)。
 ダンスの羽田悦子先生。きれい。後に事務局の「フランケン」こと田中氏と結婚。
 体育の井上先生。3年次に「卓球・バドミントンコース」を選択したにもかかわらず、バドばかりやるので、卓球をしたかった私は「なんで卓球をやらないんですか・・・・・ふざけんなよ!」と声を荒げてかましたら、翌週から卓球をやれるようになった。
 日本史の桑ヶ谷先生。後に校長。日本史クロスワードをつかって何度か授業をしてくれた。
 国語のハルキ。石渡春樹先生。いろいろ伝説があるな。
 倫社の岡田先生。物静かでした。
 物理の滝川先生。チンダル現象という言葉だけが未だに残っている。
 政経の・・・・忘れた。

5期(女): やはりダントツで印象深いのは有馬先生。今でも連絡をとっています。

7期(女): 古林先生の授業の時に、先生の誕生日だったんですが、クラスメートの男子が先生に誕生日プレゼントだといって数式をプレゼント。それを書くとお花の絵が出るようになっていて先生がとっても喜んでいたのが記憶にあります。(先生の授業の記憶ではないですね・・・)
 私が入った時に前の年になさったのだったか、先生方と先輩達とで Jesus Christ Superstar を演じたビデオをキリ概で見せてもらってすごく楽しかったんですよね。中山先生のヘロデ王、周先生のジーザスがすごくはまっていて・・・。それまでは毎年そういうコラボレーションがあったそうですが、私の代にはもうありませんでした。残念です。
 私は一般入学の学生だったので、入学後初めての授業が周先生だったんですが、それに強烈な印象が残っています。授業の時間になっても学生はみんなざわざわしてて、ふと気付くとヒッピーみたいな髪の毛ぼうぼうの背の高いおじさんが教壇のほうへ歩いてきて、あ、先生なのかなと思った瞬間、教卓に腰をかけて「よぉ、てめえら!」というのが第一声。何だろう、この人・・・、と思っていたら、突然シンタグマティックだのパラディグマティックだのとソシュールの話になってしまって、うわぁ・・・なんだ、これのどこが現代社会なんだ???と思いながら話を聞いていた記憶があります。そのあとも上述のようにカッコーの巣の上でとかブリキの太鼓とか私の頭にはなかなか理解不可能な世界が・・・。でも夏休みの読書感想文の宿題で自動車絶望工場を選んで書いたんですが、その感想を周先生に褒められたのがすごくうれしかったです。
 1年の現代国語の高月先生の授業でも夏休みの宿題に創作があって、短編小説を書いたんですが、それも褒められたのが(国語不得意だったせいでなおのこと)うれしかったですね。
 英語の授業でも創作の宿題があって、結構それはつらかったような・・。
英語の長埜先生の授業では、「まぁ君たちはこんなの中学のころにやっただろう?だから説明しないよー」と文法のクラスでは次々に例文を読んで訳すだけのことがあったような・・・。中学の時に全然塾にいかずにいた私にはチンプンカンプンでした。でもなんとかしのげたので結局高校のころに文法ってちゃんと身についていない・・・(先生すみません。汗)
 ハケット先生の授業は1年生の時にクラスメートが言い間違って "Say, Mr. Hackett, ...." というべきところを "Say, Mr.ハゲッと"と言ってしまい(頭頂部が禿げていらしたので陰でみんなでそういう綽名をつけていた)、みんなぷっと吹き出したいのをこらえていました。当時は先生が日本語を解するのを知らなかったので笑っていただけなんですが、後日、司書の藤沢愛子先生と会話していらっしゃるのに出くわし、藤沢先生が日本語で、ハケット先生が英語でという組み合わせでも十分意思疎通をしていらしたので、え、先生って日本語わかるの・・・・と、みんなで青くなったのでした。私は先生とはほとんど個人的に話しませんでしたが、先輩が進学先について迷っていて(親が離婚したこともあって経済的なことについても困っていた)アメリカの大学(ブラウンだったか)に行くか上智に行くかを考えていた時に、先生がお金を貸してあげるからブラウンに行けばどうだとおっしゃったというのを先輩に聞いて、すごいなぁ・・・と感動したのを覚えています。
 早川先生の3年生のときの英語の授業では、隣の女の子が内職で数学を勉強していて、私にそっと「メジアンってなんだっけ?」と小声で聞いてきたんですが、その時にちょうど先生がこちらのほうへ回っていらしていてそれを小耳にはさんだのでしょう、「それはね、・・・・」と説明をしてくださり、「でも、今は英語なんだよね」と穏やかににこにこしながらおっしゃったので彼女も私もすごく恐縮した覚えがあります。(先生すみません!!!)
 あとは今も病の床にいらっしゃる長谷川先生の基礎解析の授業。サイン、コサインなどをやっている時に、先生が夢見るようなすごくきらきらした表情ですごくうれしそうに「美しいだろー!」と言っていらしたのが強く印象に残っています。かっこよくて頭のよいはっちゃん(と呼んでいました)が感動する美しさかぁ・・・と。
9期(女): 個人的には、亡くなられた立石先生(英語)が思い出深いです。在職中に亡くなられた記憶が…。あと1期の卒業生が先生として戻ってきた年でした。寺田佳世ちゃん(字が違うかなぁ?)現在姓が変わってるはずですが、英語の先生でした。
14期(女):田村先生(生物)。世界史の先生の授業がおもしろかったんだけど。。。んー名前が出てきません。
22期(女):長谷川先生が「ダンデー」と呼んでいたのは22期生からです。
穂刈先生のアーチェリーの授業で試合形式を体験。
下から2番目は「次はキット勝つぞ」と言ってキットカットを下さいました。
 古林先生の初回の授業は、「古畑先生に先にふるちゃんを取られちゃったので、ふるりんって呼んでちょうだい」から始まったように記憶しています。とてもチャーミングな先生です。
 高柳先生(日本史)は授業中とても楽しそうにお話されるので、いつもいつも引き込まれていました。

 


《授業あれこれ》

英語のクラス分けは少し変化している。

1期(女):レクチャールームで学年全員で受ける日本文学史の授業があった。全て英語のため一般生にはかなりキツイ授業であった。
2期(女1):最近は帰国生の在住国に変化があり、外国語科目の中にはなくなったものもあると聞いた。
2期(女2):S(Seminar),L(Literature),IL(Introduction to literature) ,R(reader)の4種類。LとILの間にはすごい隔たりがあり、そこを乗り越えてILからLへ行った人はたぶん1ケタ台。
2期(男2):S、L、IL、Rだったと思う。Sの授業内容は英語のレベルというか、内容そのものが結構高度だったと大学に行ってから思った。
5期(女):今どのような授業があるかわからないので、うまく比較はできないが、英語のトップ2クラスはネイティブによる指導。高校入学直後にいきなりハーディーの原書を読まされてびっくりした。
7期(女):私のとった中で記憶にある面白かった授業は、東大にいらした滝川先生の理科(物理)の授業。結果を予想して理由を議論させた上で実験してみてなぜ予想通りでないのかなど議論して考えるというもの。
 あとは日大にいらした渡部先生の3年生の選択の授業だったか推薦が決まった人のためのだったか、マックス・ウェーバーの「職業としての学問」の文献購読の授業。大学のゼミのような輪読の授業でした。
 伊藤周先生の1年生の初回の授業がソシュールだったのも印象深く記憶に残っています。周先生の授業はその後、カッコーの巣の上でやブリキの太鼓を視聴して感想を書けというものや、中間試験だったかマルチプルチョイスの箇所が、正解を書くと「泣かしたこともある」と愛しのエリーの一節が浮かび上がるようになっていて、試験中に一斉にみんながぷっと吹き出して(周先生らしいや!ということで)、お、みんな今この問題やり終わったのねぇ・・・・と思ったり。
 1年の時にいらした(立教英国にいらしたのかな)数先生の生物の授業も、ノートを詳しく作る授業だったのと試験の時に論述で「近親結婚がなぜいけないか?」という設問で、「遺伝的に問題のある子供が生まれる可能性が高いから」と書いたところ「それがなぜかを考えてもらいたいんだよねぇ・・・」と言われたりとか。
 3年生の時の授業では、今村先生の日本語教授法のクラスで留学生のクラスに同席させてもらったり、化学実験のクラス(中山先生)で金魚を凍らせて解凍したり、香水作ったりと毎回楽しい実験ばかりやったりしました。英語の選択の授業でハケット先生のstudy skillsの授業があって大学に入ってから役立ったなぁと思ったり。キリスト教系列学校に推薦入学が決まった人対象で有馬先生がなさったキリスト教のクラスも、今までのキリ概(キリスト教概論をそう略して呼んでいました)とは全然違っていてへぇ・・・と思ったり。
 あ、3年生の時に現代国語の授業の一環で、石渡先生に文学散歩に連れていっていただいたのも楽しかったです。谷中あたりを回って、漱石・鴎外などの文豪ゆかりの場所を回った後で甘酒とお煎餅をご馳走になりました。参加者二人だけでしたけどとても楽しかったです。
 前中先生の音楽の授業も実習の時間がたっぷりあって好きでした。
9期(女): 英語はL1、L2、L3、ILと4つに分かれてました。Lの3クラスは、グラマー以外外国人教師の英語での授業でした。今はまた違うクラスわけになってるようです。
12期(女):12期生当時は4つに分けられていたと思います。L1〜L4
14期(女):14期の時の英語は、L1〜L4の4つのレベルだったと思う。
数学も4つかな。

19期(女):19期のころも現在も英語はL1〜L4と分けられていると思います。2年の選択科目に生活一般がありましたが、今は2年の選択にはないようです。また3年の必修体育が3単位から2単位に減り、1単位は他科目との選択になりました。

22期(女):私の時は、英語のクラスは上のクラスからL1,L2,L3,L4がありました(数学も同様)。「エルワン、エルツー、エルフォーなのになぜかエルサン

24期(女):英語のクラスはL1〜L4(L:Level?)に分かれていて、L1は英語圏からの帰国子女ばっかりでした。

 


《オーバーナイト&遠足&修学旅行》

修学旅行は、京都・奈良・広島 → 九州 → 中国 → 沖縄。

1期(女):1期の修学旅行も京都・奈良・倉敷・広島。全員分の宿が取れず、2クラスずつに分かれて3ルートを巡り途中の京都で全員集合した。
2期(女1):卒業アルバムを見ると、2期生のオーバーナイト・リトリートは御殿場の東山荘、修学旅行は京都・奈良・広島、3年時の遠足は相模湖ピクニックランド。

2期(女2):東山荘は、パンがおいしかった。修学旅行は腹壊す人続出。広島で原爆記念館を見た後の食事は牡蠣鍋だった。確か、2年生の遠足は鎌倉だった。

2期(男1):社会科の一環として、1年生のときに(’79年6月21日)に午前中で授業を終えて、午後に日帰りで西国分寺へ。「武蔵国分寺跡」を調べる・・・という名目。2年生のときの遠足は鎌倉。修学旅行では牡蠣にあたったのか、多くの生徒がその後の授業を欠席。多くの寮生もしかり・・・だが、我が第1男子寮在住者だけは元気だったと言うエピソードもある。
2期(男2):修学旅行で広島だか倉敷だかに移動中に谷口和土がパーキングエリアに置いてけぼりにになって自力で宿まで到着した。

4期(女):4期の修学旅行は、京都・奈良のみ。1−3組と4−5組が分かれて、京都から回る一団、もう一方は奈良から回る一団になっていました。じっくり日本の古都を回ることができたので、あれは良かったと今でも思います。飲酒がばれて停学になった人々もいましたけど、今ではいい思い出かと。

5期(女):オーバーナイトリトリートは御岳山だったと記憶している。
修学旅行は九州。行きは新幹線で、森進一が乗っており、皆で写真をとった。帰りは寝台車。
7期(女):7期生はオーバーナイト・リトリートは野辺山だったでしょうか。ちょっと場所名が記憶にありません。夜、先生方のスキットがあって白雪姫をやってくださって、みんなで大笑いした記憶があります。ディスカッションの時には一般生のひとりが「帰国の子は簡単に英語ができるようになってずるい!」みたいな発言から、帰国の子がいかに海外で苦労したのかという発言が相次いで、今はみんな穏やかだったりおちゃらけたりしてるけど実はいろんな経験してたんだなぁ・・・ということがわかって、ずいぶんクラスメート同士の親睦が深まった記憶があります。
 修学旅行は九州でした。3年生の遠足はどこだったか・・・。行ったんだったかしら?という程度の記憶です。すみません。あ、遠足というのかどうか3年生は東京ディズニーランドに行きました!
9期(女):9期は唯一修学旅行で中国へ行った珍しい期です。北京・上海でした。翌年中国で列車事故があり、10期からは沖縄になり、現在もそうです。リトリートは箱根、3年生の遠足は東京ディズニーランドでした。
12期(女):修学旅行は沖縄でした。3年生の時の遠足は東京ディズニーランド。現地集合後、自由見学だったので、即帰ってしまった人もいたとか。

14期(女):14期の卒業旅行は沖縄。楽しかった。

19期(女):リトリートは山梨県・・・修学旅行は沖縄でした。ちなみに3年の遠足はディズニーランドでした。

22期(女):22期生の行事は、フレッシュマン・リトリート(長野県女神湖)、1年遠足は鎌倉、2年遠足は富士急ハイランド、修学旅行は沖縄、3年卒業遠足はオープンしたての東京ディズニーシー
24期(女):リトリートは確か、蓼科にいきました。修学旅行は沖縄、遠足は3年の時に富士急ハイランドでした。

 


《創立当初はなかったもの》

1期生は、入学したとき体育館もトラックもなく、校歌がないまま卒業した……

2期(女1):1期生の入学当時、校庭のトラック、体育館、校歌などはなかったが、2期生が入ったときには体育館は完成していた。トラックはいつできたか覚えてない。校歌は確か2期生の卒業式直前だったと記憶している。

2期(女2):一年生の体育で体力測定のときにはトラックはなく単なる荒地だった。50mを直線でとるのはかなり困難だった。
 中庭の歩道、最初はなかったと思う。
 校歌がない時代、体育祭ではかわりにWe shall overcomeを歌ってた。
 入学時、1階は空き教室だった。更衣室にしていた。

2期(男1):トラックは2年次後半に完成した・・・はず。3年次に開かれた「第1回体育祭」はトラックを使用。
 校歌は2期生が卒業してゆく証として残したもの、という名目がある。作詞・奈良橋陽子、作曲・タケカワユキヒデ(当時ゴダイゴ)。卒業直前にはタケカワが自らピアノを弾き、自らが歌っていたデモテープが各クラスに配られた。1期生は校旗、3期生はパイプ椅子だったか、植樹だったか・・・。
 寮・・・男子寮、女子寮が1棟ずつ設置されたが、2期生の2学期からは第2寮がそれぞれオープン。現在では第3女子寮もある。
 N棟とS棟の間の芝生には「NO EXERCISE ON THE GRASS」の小さな立て札がいくつか立っていた。それを誰かが「NO S○X 〜」に書き換えていた。
 1階の教室から直接外に出られる出入り口には「すのこ」が敷かれており、梅雨時にそれをどかすと大きなカエルが潜んでいた。

2期(男2):多分うちの親がPTAをやってた関係だと思うがタケカワユキヒデの歌う校歌のデモテープがうちにある
7期(女): 7期の入学当初には校庭のトラック、体育館、校歌はすべてありました。今見ていて私のころにないのは新しく増設された校舎です。

9期(女): 私のころは、N棟S棟、体育館、食堂、寮が5棟という感じでしたが、今はもっといろいろ増えて、小さいホールとかあってきれいでうらやましい。

12期(女):12期生の時点では、300メートルトラックがありました。(当時までに一度拡張されたと聞いたような気がしますが、真実のほどは定かではありません。)

19期(女):19期が入学して間も無くW棟ができたと思います。

22期(女):22期で入学した時はW棟はありましたが、ひとつ上の先輩は無かった頃の話をしていました。

 


《生徒の男女比》

同数 → 女子やや多め → 男女比1:2 → 男女比1:3 → 1:2。やや持ち直したが、やはり女子が多い。

1期(女):1期生も男女ほぼ同数
2期(女):卒業して少し経ったころ、「西野女子高」になるのではという噂が立ったのを覚えている。

2期(男1):2期生247名。男子107名 女子140名

4期(女): 4期生の頃は、かなり男子がすくなく、大体3割ぐらいしかいなかったと思います。高校3年間、圧倒的に女子が多くしかも帰国子女の強いのばっかりに遭遇した彼らは、いったいあれを何だと思ったことでしょう。

5期(女): 男子はクラスの3分の1だった。
7期(女): 7期生のころは若干女子が多かったような。2:1か3:2ぐらい?
9期(女): 9期のころは女子が男子の倍でしたよ…。
12期(女):12期生は、男:女=1:3だったと記憶しています。男性はもてました(特定の男子だけかな?笑)
19期(女):19期のころはすでに男子と女子の割合は1:2だったように記憶しています。現在は男子が増えたようですが、それでも女子のが圧倒的に多いと思います。
22期(女):22期では男女比1:2と記憶しています。女子高の雰囲気は無かったけれどやはり独特ですね。

 


《クラブ》

昔は、今はない珍しいクラブが結構あった。

2期(女1):最近は、器楽部ダンス部などが活躍している印象がある。
2期(女2):女子軟式野球部・・・・
2期(男1):ハンドボール同好会。日下部一男が会長。メンバーには長富悦史、肥田一久、正田義博、金川弘敦、和田浩志、加山至がいた。
 中国語同好会。加山が1期生の平松鈴子さん(台湾とのハーフ)に誘われ創設。1期生で台湾からの帰国生・向井創さん、2期生で中国帰りの秋山・佐々木・福原が中心となって言葉を教えたり、文化祭では展示会を行った。
2期(男2):「シンポジウム・オン・ヒューマニティ」とか「富士の高嶺党」とか「ワンダフル・アスレチック・ファミリー」とかが続いていたら驚く。
4期(女): 山歩きの会は今も存続しているのでしょうか。当時は、結構な日数の縦走もしました。顧問は生物の岩田先生。あの頃は野球部が弱小であるがゆえに注目を集めていたような。。。。。。。いつも高校野球の地区予選一回戦敗退とか、坊主じゃないのが珍しいとか。
5期(女): とにかくICU=スポーツが弱いというのがもっぱらの評判(?)で、「万が一甲子園に出たら、英語の校歌が聞こえるね〜」とみな、冗談で言っていたのを覚えている。
7期(女): 私が所属していたのはDDDというのですが、ディスコダンス同好会の略で、新入生歓迎会、卒業生歓送会、クリスマス・ダンス・パーティ、文化祭の時にディスコを運営するという団体です。おもしろそうだと思って1年の時に教室をのぞいたら、3年生の先輩に「あなたが同好会の次の責任者よ!」といきなり言われてそれ以来3年間お世話になりました。いつなくなったかわかりませんが、曲を選んだりDJをやったり桜で踊ったりと結構楽しかったし、ここで出会った先輩とのつきあいも面白かったので入って良かったとは思うのですが。
22期(女):地味ながらあらゆる重要な学校行事に貢献している合唱部
最近は男声不足で、男性教員が参加しているとのことですが、頑張って欲しいです。チアー部は頑張っていました。体育祭でも団でリードを取り、花を添えていたと思います。

 


《卒業生の進路の傾向》

ICUへの推薦は、36人から80名に。

1期(女):1期生は成績上位15%、36人が推薦の資格を受けられた。

2期(男1):当時は一学年約240名中、上位36名(15%)が推薦の対象となっていた。ICUHS初の東大合格者は2期生の福原薫と村山斉。

4期(女): 4期生の頃は、成績が上位10%(もしかしたらもう少し多いかも)ぐらいに入らないと推薦枠に入れなかった気がします。
5期(女): 推薦は確か上位数パーセントだったと記憶している。
7期(女): 私のころは推薦は36名だったと思います。その後ずいぶん増えましたね。私のころは枠があってもきっと応募した人はそれほど多くないのではないかと思います。結構みんな、「こんな田舎に3年間以上通いたくないよねー」っていつも言っていたので。

12期(女):12期生では3割くらいだったのではないかと思います。受験組みも合わせて、3人に一人がICU大学に入学していたと思います。
一期生のときからICUの大学への推薦は36名で、その時代が長く続きました。そののち今から10数年前に50名と増えました。そして4年前から現在80名が推薦でICUの大学に推薦ではいれるようになっています。受験も含めると今100名くらいの人がICUの進学します。あとは大体同じですが、とくに進路指導もしないのですが、東大には多い年には4〜5名、普段でも1〜2名は出しています。海外に大学進学も多くWEEKLY YOMIURIの「海外進学力」特集では、ICU高校の実績が全国でトップでした。ハーバードやMITやブラウン大学なども入っています。今ICUの多く取られる分、相対的に他校の進学実績がやや振るわないように見えているかもしれませんね(「サンデー毎日」的な部分で)。